私事になるが、私は最初の就職で失敗した人間だ。
とはいっても、今時よくあるパターンのようにブラック企業だったというわけではない。
待遇面ではあまりよろしくない会社ではあったけれど、客観的に見て、それ以外の面ではむしろ相当恵まれた部類だったと思う。
ただ、当時の私自身が、致命的に能力不足であり、世間知らずであり、非常識だったのだ。
学生時代、極度のガリ勉だった私は、学歴こそあったけれど、それ以外のあらゆることにとことん不得手だった。
マトモにこなせた仕事が何一つないといえば、どれほどのひどさだったかわかってもらえるだろうか。
やればできるだろうという人もいるだろうが、それも程度問題で、社会人としての基礎的な土台がすっぽり欠けているとどうにもならないのだ。
直属の上司や周囲の苦悩と呆れっぷりがどれほどのものだったか。
想像するだけでもいまだに吐き気がする。
その後転職などを繰り返して、なんとか今でもやれてはいるし、さすがに当時よりはなんとかマシにはなったという自覚はある。
それでもあの絶対的な無力感は忘れられない。
世の中に完全に取り残されてしまったという自覚は、本当に虚無そのものだった。冗談ではなく、未来がないように感じていたものだ。
もっとも、私の場合はただ個人の問題だけれど、戦後、階級ごとその問題に直面した人々がいた。
元貴族の人々だ。
階級が何の意味もなさなくなった時代に、それまで一切の職業訓練をうけていなかった彼らは、才能か、有り余る資産かに恵まれた一部を除き、ことごとく没落していったという。
なにしろ、働かないことが前提だった人々だ。世間からの乖離具合は、力不足とはいえ一応働くことを想定していた私どころではなかっただろう。
それどころか、それまで後生大事にしてきた常識も、貴族ならではの美学も、つまり、価値観そのものがまったく通用しない。
そんな時代が唐突にやってきたわけで、彼らの「世の中に取り残された感」は、想像に難くない。
もちろん、それまでは恵まれていたという点ではうらやましさを感じたりもするが、その喪失感と先の見えなさ加減は半端なものではなかったはずだ。
太宰治『斜陽』も、そんな没落貴族の一家に材をとった小説のひとつだ。
母親と二人、資産を食いつぶすばかりの生活を送る娘。
そこに戦地から帰ってきた、すっかり退廃的な習慣に染まった弟。
本作では、いずれも働くことを知らない、資産を食いつぶしていく以外に生きる術を知らない彼らの、「終わりの日々」が描き出されていく。
本作は太宰治の代表作であるとともに、彼お得意の破滅的世界観の総決算でもある。
ただ、本作は、チェーホフ『櫻の園』に触発されたという経緯もあったせいか、他の作品とは雰囲気の点で大きく違う。
一読してわかるが、出だしから最後までが、徹底的な優美さと穏やかさに貫かれているのだ。
芸術性の高さという点では、太宰作品の中でも隋一だろう。
もちろん、主人公たちの生活は、ハッキリ言って虚無そのものだ。生産性もない。
今の生活が終わっていくのを、眺めているだけといった、じりじりと肌を焼かれるような描写が延々と続く。
当然だが、彼らは精神的にも決して健全な状態とは言い難い。
ただ、そんな蛇の生殺しのような設定にも関わらず、彼らは悲嘆しながらも、一方では達観している。
彼らは、既に行き着くところまで行きついてしまった人々なのだ。
生きながらにして、既に彼岸にいるかのように。
そんな一家にとっては、既に「終わること」は前提なのだ。
問題となるのは、その終わりをどう迎えるのか。あるいは、何もかもが終わってしまったあとに何を見出すか、それだけだ。
病魔に侵された母親は、それでもあくまで貴族として、優雅に、穏やかに人生を全うしようとする。
美しい、人生の終局だ。
では、残された娘と弟は?
その選択が、淡々と、あくまでも緩やかに描き出されて行くのが本作の醍醐味だ。
もっとも、テーマがテーマだけに彼らの行く末は、決して羨ましいとは言い難いものだ。
お世辞にも明るい気分になれるわけではない。
ただ、そんな内容ながら、読後には幻想的な夢でも見ていたかのような感覚が残る。
それは、芸術性の高い描写もさることながら、主人公たちの世間からの遊離っぷりによるところも大きい。
彼らの生き様は、確かに世間とは逆向きで、欠片ほどの現実性もない。世の中でただ生き抜いていくには、ひたすら不向きな人々と言わざるを得ない。
けれど、それ故の美しさがあるのもまた事実ではあるのだ。
方向性こそ完全に負の方向に向いてはいるのは事実だけれど、本作は、文字通り「美学」の物語なのだ。
時代的に何の意味をなさなくなった美学を、それを知っていながら貫く人々の。
破滅性ばかりが取りざたされがちな作品ではあるけれど、ぜひ純粋に美しい作品として、その雰囲気に酔ってみてほしい。
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